連合国軍の主力はローリンソン将軍の英第4軍である。当初約25師団を予定していたが縮小され、19個師団[1]を有していた。そのうち11個師団が第1線を担当し、5個師団が直接の予備、わずか2個師団と騎兵1個師団が総予備として配備された。南翼を担当するのはファヨール将軍の仏第6軍で、ヴェルダン戦の影響で当初の約40個師団から16個師団に減していた。7月1日の攻撃には5個師団のみが参加した。
一方ドイツ軍側はフォン・ベロー将軍の独第2軍で、ソンム河北方の諸陣地に1個軍団(5個師団)、南方に1個軍団(4個師団)を有し、後方に3個師団の予備隊を控置していた。また、ドイツ軍防御陣地は以下の通りである。第1陣地は3?5線の塹壕線からなり、第2陣地は2?3線よりなる。第2陣地は最前線より3?5kmにあって、第3陣地はフレール付近に設置。また、第1陣地と第2陣地との中間には中間陣地があり、砲兵の主力はこの中間陣地付近に、重砲は第2陣地の後方にあった。当時ドイツ軍は第1陣地に重きを置いていて、第2・第3陣地はそれほど強固ではなかった。
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連合軍は周到な準備の下、6月5日より砲撃を開始してドイツ砲兵を圧倒した。と同時にまず第1陣地を破壊し、さらに第2陣地を砲撃したがこれは30日に至るまで6日間続けられた。飛行機もまた砲兵に協力してドイツ軍陣地の後方を擾乱した。
7月1日早朝、英仏両軍の歩兵は砲火と連携しつつ攻撃前進に移った。しかしドイツ軍塹壕への事前攻撃の効果が少なかったこと、攻撃中の部隊との通信連絡が完全に途絶したことに加え、ドイツ軍の防衛陣地が多重防御を備えた強固なものであったため、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被った。これは戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。
フランス軍は同日夕方までに独第1陣地の最前線を奪取した。ドイツ軍の逆襲を撃退してさらに攻撃を続け、5日までにペロンヌ西側地区において第1陣地だけでなく第2陣地の一部も占領するにいたる。イギリス軍の正面ではドイツ軍の激しい逆襲によってあまり前進出来ず、ただフランス軍との隣接地区においてのみ相当の進展を見た。ドイツ軍はこの間各方面から増援を得て逆襲を繰り返して抗戦を試み、その兵力は2倍、16師団に増加した。連合軍はその後攻撃を続行し、7月20日までに仏軍は正面約12km、深さ2ないし8kmの敵陣地を獲得し、英軍では第1陣地地帯を突破した。
7月下旬から9月中旬にわたる間英仏軍は攻撃を続行し、ソンム河北岸の地区では攻撃進展著しく、イギリス軍は9月15日の攻撃で第15軍に投入されたMk.I戦車をフレール方面で初めて使用した。秘密兵器の初披露であった衝撃もあり、ドイツ軍の戦線攻略に効果があったが、投入できる数は少なく、運用面でも不備があり機動性は発揮できなかった(戦車の投入にはイギリスの軍需大臣ロイド・ジョージは否定的であった)。この間ドイツ軍では8月下旬、ファルケンハイン将軍がヴェルダン攻撃失敗により参謀総長の職を退き、ヒンデンブルク将軍がこれに変わった。
9月末にソンム地方は天候不良で地面が泥だらけとなって作戦困難となったが、英仏連合軍は攻撃を続けた。10月末までにはソンム河北岸地方で一定の成果をみたが、7月以来3カ月にわたる攻撃で消耗激しく、またドイツ軍も他方面の作戦に忙殺され、11月上旬には両軍対峙の形となった。
一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。