2009年06月16日

マイクロ波は通信などで用いられてきたが

マイクロ波は通信などで用いられてきたが、これを加熱に使用するという着想は、まったくの偶然から生まれた(→セレンディピティ)。

発明者はアメリカ合衆国のレイセオン社 (Raytheon) で働いていたレーダー設備設置技師パーシー・スペンサー (Percy Spencer) で、ポケットの中の食べかけのピーナッツ・クラスター・バーが溶けていたことから調理に使用可能であることが判明したとされる。

最初に電子レンジで調理した食物は、慎重に選ばれた結果、ポップコーンであった。2番目は鶏卵だったが、これは爆発により失敗した。

レイセオン社はマイクロ波による調理について1946年に特許をとり、1947年に最初の製品を発売した。高さ180cm、重量340kg。消費電力は3000Wだった。この製品は大変に売れ行きがよく、他社も相次いで参入した。

日本での商品化は、1962年にシャープが業務用に出したものが第一号といわれ、1964年開通の東海道新幹線のビュッフェ車にも備え付けられた。[1]

一般家庭向けに発売されたのは、1965年が最初といわれている

もっとも当初は消費者からすんなりと受け入れられたわけではなかった。冷めた料理を温めたり、冷凍食品を解凍させる程度の役にしか立たない調理器に、なぜ高い金を出して購入する必要があるのか、まったく理解されなかったからである。

そのためメーカーは、電子レンジがあたかも「焼く」「煮る」「蒸す」「揚げる」「炒める」「茹でる」「漬ける」等ありとあらゆる機能をこなす万能調理器であるかのように宣伝して売ろうとした。
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これに対して『暮しの手帖』は1975年?1976年に特集を組み、「電子レンジ―この奇妙にして愚劣なる商品」と題した記事を掲載、「メーカーはなにを売ってもよいのか」と酷評した。当時『暮しの手帖』の商品テストは消費者から高い信頼を得ていたため、「電子レンジは万能調理器ではない」という認識は消費者にも印象付けられた。『暮しの手帖』は同じ号で、蒸し器を使って冷めた料理をおいしく温めるコツについての記事を掲載した。

しかし多少味が落ちようが、ボタン一つの手間で料理を温めることができる便利さは、多くの家庭にとって抗いがたい魅力に映った。高度経済成長で暮らしが豊かになる半面、個食に代表される家族が揃って食事する一家団欒の風景が過去のものとなっていく過程で、簡単に料理を温められる手段へのニーズが着実に増大していったためである。その後、その「冷めた料理を温める程度の役にしか立たない調理器」は徐々に普及していくことになる。

冷凍食品の普及と品質向上、冷凍食品を保存できる冷凍庫つきの冷蔵庫の普及が重なったことも幸いした。そしてさらには電子レンジで調理することを前提とした半調理済み食品までが販売されるようになったのである。

2009年05月30日

上野戦争

上野戦争(うえのせんそう, 慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
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慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。

抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。

2009年04月27日

直前の両軍

連合国軍の主力はローリンソン将軍の英第4軍である。当初約25師団を予定していたが縮小され、19個師団[1]を有していた。そのうち11個師団が第1線を担当し、5個師団が直接の予備、わずか2個師団と騎兵1個師団が総予備として配備された。南翼を担当するのはファヨール将軍の仏第6軍で、ヴェルダン戦の影響で当初の約40個師団から16個師団に減していた。7月1日の攻撃には5個師団のみが参加した。

一方ドイツ軍側はフォン・ベロー将軍の独第2軍で、ソンム河北方の諸陣地に1個軍団(5個師団)、南方に1個軍団(4個師団)を有し、後方に3個師団の予備隊を控置していた。また、ドイツ軍防御陣地は以下の通りである。第1陣地は3?5線の塹壕線からなり、第2陣地は2?3線よりなる。第2陣地は最前線より3?5kmにあって、第3陣地はフレール付近に設置。また、第1陣地と第2陣地との中間には中間陣地があり、砲兵の主力はこの中間陣地付近に、重砲は第2陣地の後方にあった。当時ドイツ軍は第1陣地に重きを置いていて、第2・第3陣地はそれほど強固ではなかった。

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連合軍は周到な準備の下、6月5日より砲撃を開始してドイツ砲兵を圧倒した。と同時にまず第1陣地を破壊し、さらに第2陣地を砲撃したがこれは30日に至るまで6日間続けられた。飛行機もまた砲兵に協力してドイツ軍陣地の後方を擾乱した。

7月1日早朝、英仏両軍の歩兵は砲火と連携しつつ攻撃前進に移った。しかしドイツ軍塹壕への事前攻撃の効果が少なかったこと、攻撃中の部隊との通信連絡が完全に途絶したことに加え、ドイツ軍の防衛陣地が多重防御を備えた強固なものであったため、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被った。これは戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。

フランス軍は同日夕方までに独第1陣地の最前線を奪取した。ドイツ軍の逆襲を撃退してさらに攻撃を続け、5日までにペロンヌ西側地区において第1陣地だけでなく第2陣地の一部も占領するにいたる。イギリス軍の正面ではドイツ軍の激しい逆襲によってあまり前進出来ず、ただフランス軍との隣接地区においてのみ相当の進展を見た。ドイツ軍はこの間各方面から増援を得て逆襲を繰り返して抗戦を試み、その兵力は2倍、16師団に増加した。連合軍はその後攻撃を続行し、7月20日までに仏軍は正面約12km、深さ2ないし8kmの敵陣地を獲得し、英軍では第1陣地地帯を突破した。

7月下旬から9月中旬にわたる間英仏軍は攻撃を続行し、ソンム河北岸の地区では攻撃進展著しく、イギリス軍は9月15日の攻撃で第15軍に投入されたMk.I戦車をフレール方面で初めて使用した。秘密兵器の初披露であった衝撃もあり、ドイツ軍の戦線攻略に効果があったが、投入できる数は少なく、運用面でも不備があり機動性は発揮できなかった(戦車の投入にはイギリスの軍需大臣ロイド・ジョージは否定的であった)。この間ドイツ軍では8月下旬、ファルケンハイン将軍がヴェルダン攻撃失敗により参謀総長の職を退き、ヒンデンブルク将軍がこれに変わった。

9月末にソンム地方は天候不良で地面が泥だらけとなって作戦困難となったが、英仏連合軍は攻撃を続けた。10月末までにはソンム河北岸地方で一定の成果をみたが、7月以来3カ月にわたる攻撃で消耗激しく、またドイツ軍も他方面の作戦に忙殺され、11月上旬には両軍対峙の形となった。

一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。

2009年04月11日

バッキュリデース

バッキュリデース(Βακχυλίδης、Bakkhylides、紀元前520年頃 - 450年)は古代ギリシアの抒情詩人であり、古代ギリシアの9歌唱詩人の一人に数えられる。ディオニューソスの神話をうたった『ディテュランボス』(ディオニューソス讃歌)に加え、多数の祝勝歌で知られる。

バッキュリデースはケオス島で紀元前520年頃に生まれたとされる。抒情詩人シモーニデースの甥であった。彼はシュラクーサイの僭主ヒエロン(1世、Hiero I of Syracuse)の元に、シモーニデースやピンダロス同様に、客として滞在していたと考えられる。ヒエロンの宮廷において、ピンダロスと彼は敵対関係にあったとも伝えられているが、後世の伝記作者の創作と考えられる。

その作品はヘレニズム時代を通じて、紀元5世紀頃まではよく知られていた。例えば、ローマ皇帝ユリアヌスは彼の作品を読むことが何よりも喜びであると表明していたと伝わっている[1]。しかし西洋中世を経て、彼の作品のほとんどが湮滅してしまい、断片の形でしか伝わっていなかった。ところが、1896年にエジプトのヘリオポリス・マグナ(現在の El-Ashmunein )でほぼ完全な形の『祝勝歌集』と『ディテュランボス』の前半部分が発見されたことから、その作風を確認することが可能となった[2]。

作品 [編集]
バッキュリデースはヒエロンの依頼で多数の祝勝歌を作り、ピンダロスと並ぶ抒情詩人として知られた。彼の作風は、その『ディテュランボス』で示されているように、ディオニューソス的な騒擾と地上的な賑やかさにあった。彼の祝勝歌は、ピンダロスのそれに比較すると分かりやすく、依頼者の求めに応じて、勝利の祝祭頌歌をうたった[3]。

バッキュリデースは、三篇の『ディテュランボス』と多数の「祝勝歌」(エピニーキア、επινικια)の他に、

「諸神讃歌」(ヒュムノイ、hymnoi)
「パイアン」(アポローン讃歌、παιαν)
「乙女歌」(乙女達の合唱歌、パルテネイア、παρθενεια)
舞曲(ヒュポルケーマタ、υπορχηματα)
宴会の頌歌(エンコーミア、εκκωμια)
などを書いたが、それらは今日、断片でのみ伝わっている

クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

2009年03月27日

ブードゥー教

ブードゥー教(ブードゥーきょう、英: Voodoo)は、カリブ海の島国ハイチやアメリカ南部のニューオーリンズなどで信仰されている民間信仰。

「ブードゥー(あるいは「ヴードゥー」)」という呼び方は英語で、ハイチや西アフリカではヴォドゥン(Vodun)と呼び習わされている。ヴォドゥンとは西アフリカのフォン語(Fon)で「精霊」の意味。ヴォドゥンはベナンなどの西アフリカで広く信じられており、ベナンの国教となっている。

キューバのサンテリアやブラジルのカンドンブレ、マクンバといった信仰の仲間である。もっとも近年はカリブから欧米への移民が相次いでいるため、欧米各国でも移民の一世、二世らによって信仰されている。「宗教」と規定されることも多いが、教義や教典がなく、また宗教法人として認可された教団も皆無で、布教活動もしないため、民間信仰といった方が現状に即しているといえる。その儀式は太鼓を使ったダンスや歌、動物の生贄(いけにえ)、神が乗り移る「神懸かり」などからなる。

ローズマリー・エレン・グィリー・著 荒木正純・松田英・訳/監訳『魔女と魔術の辞典』(原書房 1996年)や檀原照和・著『ヴードゥー大全』(夏目書房 2006年)によると、サンテリアやカンドンブレ、アフリカの民間信仰なども含めたブードゥーならびに類似信仰の信者は、全世界で五千万人にも上るという。これはチベット仏教の三千万人を遙かにしのぐ数字である。

成立の背景
ブードゥーは植民地時代の奴隷貿易でカリブ海地域へ強制連行されたアフリカ人の間における伝承・信仰がキリスト教(カトリック)と習合した事によって成立した。したがってブードゥーの中には聖母マリアなどキリスト教の聖人も登場する(ちなみにイエスはあまり登場しない)。しかし、あくまでもアフリカの民間信仰の文脈の中にキリスト教の聖人信仰が組み込まれただけなので、信仰の骨子はアフリカ時代とほとんど同じである。

(厳密にはアイルランド起源のドルイド教の影響も大きいとみられる。後述するバロン・サムディという神格やフェッテ・ゲデという行事には、ドルイド教の影響が見られる。またカトリックと切り分けのむずかしい「民衆キリスト教」の影響も無視しがたい)

その後、奴隷解放による農民の土地所有により、土地と結びついた祖先崇拝色を獲得したり、コンゴやインド、中国などからの低賃金労働者の移入により、さらなる信仰の混交がすすんだりと、その成立・発展は複雑である。

ハイチでは1987年、憲法により初めて国に認められたが、カトリック教会は植民地時代からブードゥーを黙認していた。というのも、ブードゥーはアフリカにルーツを持つ一方で、土着キリスト教としての側面もあり、なおかつ支配者であるフランス人がこういった面に比較的寛容だったためである。フランス人に限らず、植民地をもっていたラテン系の人々はキリスト教と異教が習合して土着キリスト教化することにさほど抵抗を覚えなかったと見受けられる。そのためサンテリアやカンドンブレをはじめ、「ブラック・マジック」と称される信仰は、主にラテンアメリカに広まっている。他方、アメリカやイギリスなどアングロサクソン系の人々はキリスト教の異端化に神経質だったため、アメリカではキリスト教の土着化はさほど進まなかった。(ただし黒人の比率が高いジャマイカではアフロ・クリスチャン教会(ポコメニア)とよばれる土着化したプロテスタント教会が一般的である。)

ラダ(rada)/ダホメイ 西アフリカ伝来の神格たちや精霊たち。(主にフォン人の民俗信仰)
ダンバラ・ウェドゥ(Dambala We`do):ラダの神格たち(あるいは精霊たち)の長。蛇の化身。シンボルカラーは白。 
アイダ・ウェドゥ(Ayida We`do):ダンバラの妻。虹の化身。
エジリ・フレーダ(Erzulie Fre'da):愛の神格。ヴードゥー信仰のセックスシンボル。男性版のセックスシンボルであるオグンと対になる。なお、エルズリー(Erzulie)という呼び方も見かけるが、古語なので、現在はつかわれない。
オグン(Ogoun):火と鉄の化身。
アグエ(Agwe):海の支配者。
アザカ(Azaka):農業の神格。気性が荒く行動は粗野。農民の代弁者。
ロコ(Loco):薬草の精。司祭が薬草で民間療法や施術を行うため、司祭と寺院の保護者でもある。
グラン・ブワ(Gran boir):森の精。
シンビ(Simbi):川や泉の精。
レグバ(Legba):特別な地位にある神格。扉や街道、運命の支配者にして気まぐれなトリックスター。十字路に棲む。儀式では必ず最初に呼び出される。
ペトロ(petro) ハイチ生まれの神格たちや精霊たち。気性が荒い。
バロン・サムディ(Baron Samedi):別名をメートル・シミティエ・ブンバ。(フランス語で墓場の主人の意)
エジリ・ダント:黒い肌をしたもう一人のエジリ。嫉妬深い。
メット・カフー:もうひとりのレグバ。やはり十字路や街道を司る。
ゲデ(Gede):ラダにもペトロにも属さない神格。死と生とセックスの精。毎年11月初めから一週間あまりの間、ハイチではゲデを祀るお祭りが催される。この祭りはハロウィンと同じ万霊節のお祝いでもある。

レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

2009年03月11日

タスマニア原生地域

タスマニア原生地域(タスマニアげんせいちいき、Tasmanian Wilderness)はオーストラリア・タスマニア州にある、ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている地域の総称。
タスマニア原生地域はタスマニアデビルの分布域として有名である。タスマニアデビルはかつて家畜や家禽を襲う害獣とされ駆除されたが、現在では保護されている。ほかにもウォンバットやカモノハシなど、多種多様なオーストラリア区独特の生物種、この島の固有種が生息することでも知られる。

海岸の地形は氷河によって削られた1万5000年前の玄武岩があり壮大な光景を醸し出している。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

また文化的遺産として、アボリジニのステンシル技法で書かれた壁画や、石器などが見つかっており、考古学的に非常に貴重な場所でもある。

保護された地区

国立公園
ウォールズ・オブ・イェルサレム国立公園(w:Walls of Jerusalem National Park)
クラドル・マウンテン=レイク・セント・クレア国立公園(w:Cradle Mountain-Lake St Clair National Park)
サウスウエスト国立公園(w:Southwest National Park)
ハーツ・マウンテンズ国立公園(w:Hartz Mountains National Park)
フランクリン=ゴードン・ワイルド・リバーズ国立公園(w:Franklin-Gordon Wild Rivers National Park)

州立保護区
デビルス・ガレット州立保護区(Devils Gullet State reserve)
マラクーパ・ケーブ州立保護区(Marakoopa Cave State Reserve)
リッフィー・フォールズ州立保護区(一部、Liffey Falls State Reserve)

保護地域
アダムズフィールド・保護地域(Adamsfield Conservation Area)
サウスウエスト・保護地域(Southwest Conservation Area)
セントラル・プレート保護地域(Central Plateau Conservation Area)
マーブル・ヒル保護地域(Marble Hill Conservation Area)

森林保護区
ドライズ・ブラフ森林保護区(Drys Bluff Forest Reserve)
メンダー森林保護区(Meander Forest Reserve)
リッフィー・森林保護区(Liffey Forest Reserve)

その他
セント・クレア礁湖(St Clare Lagoon)
ファーム・コーブ・ゲーム・リザーブ(Farm Cove Game Reserve)
マーツイカー・アイランド(Maatsuyker Island)
マックスウェル・リバー保護考古学遺跡(Maxwell River Protected Archaeological Site)
ワルガタ・ミナ保護考古学遺跡(Wargata Mina Protected Archaeological Site)
マッコーリー・ハーバー歴史遺跡(Macquarie Harbour Historic Site)

2009年02月23日

サハ語(さはご、サハ語:Саха тыла(saxa tyla)

サハ語(さはご、サハ語:Саха тыла(saxa tyla)、ヤクート語とも)は、シベリアに住むテュルク系民族であるサハ人(ヤクート人)の言語である。話者数は約36万3000人。

テュルク諸語のヤクート語群に属し、同語群の最大言語である。テュルク諸語に属する言語は一般にお互いに共通性が高いが、ヤクート語群は他のテュルク語との違いが大きい。ヤクート語群に属する他の言語としてクラスノヤルスク地方タイミル自治管区のタイミル半島で話されるドルガン語があり、サハ語とはごく近い関係にある
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

サハ人はロシア連邦のサハ共和国に住んでおり、またハバロフスク、トルコ共和国をはじめ各地に小さい集落がある。サハ共和国内では異民族間の共通語(リンガフランカ)である。

ロシア語に用いられるものに5字を加えたキリル文字(1939年制定)を用いる。

キリル文字 音価
А а /a/
Б б /b/
В в /v/ 借用語のみ
Г г /g/
? ? /?, ?/
Д д /d/
Дь дь /?/
Е е /e, je/ 借用語のみ
Ё ё /jo/ 借用語のみ
Ж ж /?/ 借用語のみ
З з /z/ 借用語のみ
И и /i/
Й й /j, j?/ 鼻音化することがあるが表記はされない
К к /k, q/
Л л /l/
М м /m/
Н н /n/
? ? /ŋ/
Нь нь /?/
О о /o/
? ? /ø/
П п /p/
Р р /r/
С с /s/
? ? /h/
Т т /t/
У у /u/
? ? /y/
Ф ф /f/ 借用語のみ
Х х /x/
Ц ц /?/ 借用語のみ
Ч ч /c/
Ш ш /?/ 借用語のみ
Щ щ /??/ 借用語のみ
Ъ ъ ? 借用語のみ
Ы ы /?/
Ь ь ? 借用語のみ
Э э /e/
Ю ю /ju/ 借用語のみ
Я я /ja/ 借用語のみ

2009年02月07日

後小松天皇・後花園天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、永和3年/天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。名は幹仁(もとひと)。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、在位期間が南北朝合一以降(1392-1412)に繰り下げられてしまっている。

後円融天皇の第1皇子。母は内大臣三条公忠の娘、通陽門院藤原厳子[1]。また、風狂の禅僧一休宗純は後小松の落胤とも伝えられている。

女院:藤原(日野西)資子(光範門院)(1384-1440) - 日野西資国女、資教養女
第1皇子:実仁親王(称光天皇) - (1412-1428)
第2皇子:某(小川宮)(1404-1425)
第1皇女:理永女王(1406-1447) - 大聖寺
猶子:彦仁王(後花園天皇) - 崇光天皇曾孫、伏見宮貞成親王王子
典侍:藤原(甘露寺)経子 - 甘露寺兼長女
宮人:源(土岐)氏
宮人:源(白川)資忠女
宮人:藤原氏(南朝遺臣の女で、花山院家出身と伝える)
皇子:一休宗純(1394-1481) - 大徳寺。落胤説があるが真相は不明。

系図
〔北朝〕

治仁王

(北1)光厳天皇 (北3)崇光天皇 栄仁親王 貞成親王
(後崇光院) (102)後花園天皇

(北2)光明天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕

長助法親王 (北4)後光厳天皇 (北5)後円融天皇 (北6)(100)
後小松天皇 (101)称光天皇

珣子内親王
(後醍醐天皇中宮、
新室町院) 皇子某(小川宮)

〔南朝〕

(96)後醍醐天皇 尊良親王

世良親王

護良親王
(尊雲法親王) 興良親王

恒良親王 (98)長慶天皇

成良親王 (99)後亀山天皇 〔小倉宮〕

(97)後村上天皇 良成親王(鎮西宮)

宗良親王
(尊澄法親王)

懐良親王

日野資教邸で養育される。弘和2年(1382年)12月28日、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。明徳4年(1393年)に後円融上皇が死去すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。

応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。

称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の次男小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。正長元年(1428年)にいよいよ称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介で貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。

称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間永享3年(1431年)に出家している。永享5年(1433年)10月20日に死去。享年57。

諡号・追号・異名
遺諡により「後小松院」と追号された。ちなみに「小松帝」は第58代光孝天皇の異名。光孝天皇は兄の孫・陽成天皇の廃位のち皇位につき、その子孫は長く皇位を保った。崇光系への皇統移行が現実となった今、自らの正統性を諡号によって示そうとした後小松の固い意志が感じ取れる。また、称光天皇の容態が思わしくなかった1426年に後小松が『本朝皇胤紹運録』の作成を命じて、皇室の系図の整理を行わせているのもこうした自身の正統性への思い入れの反映であると考えられる。

在位中の元号
永徳 (1382年4月11日) - 1384年2月27日
至徳 1384年2月27日 - 1387年8月23日
嘉慶 1387年8月23日 - 1389年2月9日
康応 1389年2月29日 - 1390年3月26日
明徳 1390年3月26日 - 1394年7月5日
応永 1394年7月5日 - (1421年12月19日)

後花園天皇(ごはなぞのてんのう、応永26年6月18日 (1419年7月10日) - 文明2年12月27日 (1471年1月18日); 在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))は、室町時代の第102代天皇である。名を彦仁(ひこひと)という。

伏見宮貞成親王(伏見宮家三代目、崇光天皇の孫、後崇光院)の第二皇子。母は庭田経有の娘、敷政門院・源幸子。持明院統の嫡流に当たる。
後に後小松天皇の猶子になった。

典侍:藤原(日野)郷子 - 日野秀光女
皇女(真乗寺宮)(?-1482) - 真乗寺
女院:藤原(大炊御門)信子(嘉楽門院)(1411-1488) - 藤原孝長女、大炊御門信宗養女
第一皇女:観心女王(1434-1490) - 安禅寺
第一皇子:成仁(ふさひと)親王(後土御門天皇)(1441-1500)
宮人:藤原(三条)冬子(1441-1489) - 転法輪三条実尚女
母不詳
皇女:照厳女王(?-1464) - 大聖寺

系図
〔北朝
       治仁王

(北1)光厳天皇 (北3)崇光天皇 栄仁親王 貞成親王
(後崇光院) (102)後花園天皇

(北2)光明天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕

長助法親王 (北4)後光厳天皇 (北5)後円融天皇 (北6)(100)
後小松天皇 (101)称光天皇

珣子内親王
(後醍醐天皇中宮、
新室町院) 皇子某(小川宮)

〔南朝〕

(96)後醍醐天皇 尊良親王

世良親王

護良親王
(尊雲法親王) 興良親王

恒良親王 (98)長慶天皇

成良親王 (99)後亀山天皇 〔小倉宮〕

(97)後村上天皇 良成親王(鎮西宮)

宗良親王
(尊澄法親王)

懐良親王

(102)後花園天皇 (103)後土御門天皇 (104)後柏原天皇



(105)後奈良天皇 (106)正親町天皇 誠仁親王(陽光院) (107)後陽成天皇



良恕法親王 智忠親王



(桂宮)智仁親王 広幡忠幸

先代の称光天皇は1422年以降、幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子が無く、後小松上皇は大覚寺統の動きを牽制する必要があった。称光天皇が亡くなる前に、伏見宮家より猶子を迎えることとなった。1428年に称光天皇が危篤に陥ると後南朝勢力などが活動の気配を見せ、室町幕府6代将軍の足利義教は伏見御所にいた彦仁王を保護し、治天である後小松上皇に新帝指名を求める。称光が崩御し、親王宣下のないまま1429年12月27日に即位。

後小松上皇が1433年まで院政を敷いた。それ以後は、30年余り親政を行い、この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱や嘉吉の乱などでは、治罰綸旨を発するなど政治的役割も行った。1439年に勅撰和歌集(二十一代集)の最後にあたる新続古今和歌集が成立。43年には後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ、後花園天皇は逃れるが、三種の神器の一部を奪われる禁闕の変が起こる。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。1455年、大覚寺統の嫡流である木寺宮に親王宣下して復興。1457年(長禄元年)には、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が長禄の変で神璽(勾玉)を奪い返し南朝の残党を殲滅する奮闘をしたので、翌年には三種の神器は北朝の手中に揃っている。1461年には常盤井宮に親王宣下を与えて大覚寺統の正統を保存した。1464年8月21日に後土御門天皇に譲位して上皇となり、院政を続けた。67年から京都で応仁の乱が起こると、後土御門天皇とともに室町亭へ逃れる。

1470年12月27日、室町亭で崩御。51歳。

闘鶏や猿楽、松はやしなどを好んだ。長禄・寛正の飢饉に際しては、将軍足利義政に対して、漢詩を以って諌めたとするエピソードもある。

2009年01月22日

国制は連邦制を取るが

国制は連邦制を取るが、国家元首である大統領が行政の中心として強い指導力を発揮する。大統領は、首相(議会の信任を要する)を含む政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布する権限を持ち、軍隊と国家安全保障会議の長を兼ねる。

ソビエト連邦からの独立以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の法改正によって6年となった。

21世紀に入ってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源をてこに、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体ぶりから比べると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシアとの協議無しに東ヨーロッパへのミサイル防衛基地の展開を進めているアメリカや、NATOとの緊張状態は高まりつつある。(新冷戦)

ロシア連邦議会(Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii )は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表ひとりずつからなり上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は、任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を得るためのハードルがあげられ、プーチン政権、シロヴィキおよび与党統一ロシアに有利な選挙戦が展開された。

中央政界で活動する主要な政党については、ロシアの政党を参照のこと。

加盟している国際機関
国際連合
欧州安全保障協力機構
欧州・大西洋パートナーシップ理事会
欧州評議会
独立国家共同体
集団安全保障条約
ロシアは、85の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。

ウラジーミル・プーチン政権は、中央政府の各連邦構成主体への影響力拡大を図り、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。

中央連邦管区(本部モスクワ)
北西連邦管区(本部サンクトペテルブルク)
南部連邦管区(本部ロストフ・ナ・ドヌ)
沿ヴォルガ連邦管区(本部ニジニ・ノヴゴロド)
ウラル連邦管区(本部エカテリンブルク)
シベリア連邦管区(本部クラスノヤルスク)
極東連邦管区(本部ハバロフスク)
名称 人口(人) 州都/主府/本部 備考
中央連邦管区
Центральный федеральный округ 37,142,300 モスクワ
Москва
北西連邦管区
Северо-Западный федеральный округ 14,282,900 サンクトペテルブルク
Санкт-Петербург
南部連邦管区
Южный федеральный округ 21,471,300 ロストフ・ナ・ドヌ
Ростов-на-Дону
沿ヴォルガ連邦管区
Приволжский федеральный округ 32,017,800 ニジニ・ノヴゴロド
Нижний Новгород
ウラル連邦管区
Уральский федеральный округ 12,603,200 エカテリンブルク
Екатеринбург
シベリア連邦管区
Сибирский федеральный округ 20,792,500 ノヴォシビルスク
Новосибирск
極東連邦管区
Дальневосточный федеральный округ 7,169,400 ハバロフスク
Хабаровск

さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名し地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。

主要都市
ロシアには人口100万人を超える都市が13(以下、2002年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1012万6000人)。続くサンクトペテルブルク(466万人)の2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体として他の州や共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパ・ロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。

モスクワ 10,126,424 11 ウファ バシコルトスタン共和国 1,042,437
2 サンクトペテルブルク サンクトペテルブルク 4,661,219 12 ヴォルゴグラード ヴォルゴグラード州 1,011,417
3 ノヴォシビルスク ノヴォシビルスク州 1,425,508 13 ペルミ ペルミ地方 1,001,653
4 ニジニ・ノヴゴロド ニジニ・ノヴゴロド州 1,311,252 14 クラスノヤルスク クラスノヤルスク地方 909,341
5 エカテリンブルク スヴェルドロフスク州 1,293,537 15 サラトフ サラトフ州 873,055
6 サマーラ サマラ州 1,157,880 16 ヴォロネジ ヴォロネジ州 848,752
7 オムスク オムスク州 1,134,016 17 トリヤッチ サマラ州 702,879
8 カザン タタールスタン共和国 1,105,289 18 クラスノダール クラスノダール地方 646,175
9 チェリャビンスク チェリャビンスク州 1,077,174 19 ウリヤノフスク ウリヤノフスク州 635,947
10 ロストフ・ナ・ドヌ ロストフ州 1,068,267 20 イジェフスク ウドムルト共和国 632,140
2002年国勢調査

軍事

経済
ソビエト連邦解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このためにかえって急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア経済危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。

しかし、ロシアはサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた石油産業を中心とする成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新ロシア人、ニュー・リッチに代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン人によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られるが、2000年にはGDP成長率が10%を越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いており、一人当たり名目GDPも、1999年には1334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6879ドルと5倍強の増加を見せた。ロシアはまた、ブラジル・中国・インドと共に「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の1つに挙げられている。

鉱業
ロシアは最も鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は「鉱業便覧 平成14年版 経済産業調査会」による2002年時点のものである)。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

有機鉱物資源では、天然ガス(21807千兆ジュール、21.9%、2位)、原油(3.5億トン、10.3%、2位)、燃料に用いられる亜炭(8668万トン、9.5%、4位)、石炭(1.6億トン、シェア4.4%、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビア、アメリカ合衆国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。

これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭 (88%) と天然ガス (69%) である。一方、原油の国内消費比率は29%と低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6211万トン、2001年)である。

貿易
ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年に至ると、国民総生産4885億ドルに対し、輸出は1260億ドル、輸入524億ドルに増加している。輸出の伸びが著しい。これは原油及び、石油関連の生産・輸出拡大によるものだ。ロシアの貿易構造は1992年から2003年に到る10年間で大きく変化してきた。1992年時点では旧ソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油、石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。

1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械 (35.0%)、原油(天然ガスを含む、14.7%)、化学品 (10.6%)、軽工業品 (8.1%)、鉄鋼 (6.9%)。同輸入品は、建築機械 (36.2%)、軽工業品 (20.4%)、食料 (16.7%)、化学品 (7.5%)、鉄鋼 (5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム (2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ (6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ (14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。

日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で50%弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が次いだ。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類 (26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車 (62.1%)、建設機械 (6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。

2009年01月15日

微生物学(びせいぶつがく、英 Microbiology)

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微生物学(びせいぶつがく、英 Microbiology)とは微生物を対象とする生物学の一分野。

微生物とは(真正)細菌、古細菌、原生生物、真菌類など、顕微鏡的大きさ以下の生物を指す。しかし、微生物学という用語を用いられる場合、主として原核生物(細菌、古細菌)をその対象とする場合が多い。また、ウイルスをその対象に含める場合もある。

主に生化学的な解析を行う。現在は地球科学的因子の一つとして微生物を含めた微生物生態学のようなラージスケールでの解析も行っている。

17?18世紀 - アントニ・ファン・レーウェンフックの顕微鏡観察により、微生物の概念が生まれる。この後、微生物学はその歩みをいったん止めることとなる。
1837年 - カニャード-ラトゥール、シュワン、キュッツィンクによりアルコール発酵を行う生物である酵母が微生物であり、この反応は酵母の生理機能に基づくものであると発表した。
1840年ごろ - 手術による外科的敗血症を防ぐために消毒剤などの導入が進められた。
1857年 - ルイ・パスツールが「すべての発酵過程は微生物活動に基づくものである」ということを発表した。この後、20年間にわたってパスツールは多くの発酵反応を研究し続けた。
1860年 - ルイ・パスツールが白鳥の首フラスコを用いて、自然発生説を否定する。またチンダルも滅菌という概念を持って自然発生説を否定する実験を行っている。
1870年 - ド・ベリーとブレフェルドによって純粋培養とは「ただ一種の微生物を含む培養である」と定義された。
1876年 - ロベルト・コッホによって炭疽の原因となる細菌(炭疽菌、Bacillus anthracis)が分離され、その病原性が証明された。
1892年 - イワノフスキーの実験により、細胞ろ過器を透過するウイルスの存在が示唆された。
20世紀以降 - 微生物学を通じて生化学の理解が深まる。また突然変異などの誘導を用いた遺伝学の実験が微生物において進行し、1945年以降は遺伝学と生化学が微生物学と融合し始めた。

微生物学の実際

純粋培養
微生物学の最も基本的な実験ないし手法としては、微生物の純粋培養技術(分離)がある。環境下では様々な種類の微生物同士が種間相互作用を行っており、これらの相互作用を除いて個々の種類の性質を探るには、微生物を純粋に培養する技術が最も基本的なところとなる。なお、純粋培養には器具の滅菌、ならびに培地の組成など微生物のみならず、細胞を扱う学問の基礎となる技術が伴う。

培地の組成や温度、培養時間などによって分離できる菌が異なる。例:

土からの分離
環境から取得した土を滅菌水などに懸濁し、静置後上澄みを適当に希釈し寒天培地に塗布する。適温に放置し菌の生育を待つ。生育してきたコロニーをさらに白金耳などで寒天培地に塗布しシングルコロニー(単一菌体由来のコロニー)を取得する。
限外希釈法
寒天培地で生育させられない場合に行われる。菌を懸濁した培地を何倍にも希釈し培養することで単一菌体由来の培養液を得る。厳密には菌がからみあっていたり、ゴミに複数の菌が付着していたりする場合もあるので留意する。

難培養性微生物
純粋培養に基づく研究は微生物学の王道となってきたが、未知の因子を要求するものなど、純粋培養が不可能もしくはきわめて困難な微生物も多く、これらは難培養性微生物と呼ばれる。土壌など、自然界に存在する微生物の大半は、このような難培養性微生物であるといわれており、PCRやDNAマイクロアレイなどの新技術を用いた、純粋培養によらない研究手法も模索されている。


細胞の基礎代謝については、真核生物を用いたものよりも、個々の細胞クローンが得られる微生物から多くの知見が得られた。異化、同化はもちろん、タンパク質や脂質、核酸の生合成などは微生物学からえられたものといっても過言ではない。

増殖
微生物の増殖に関する実験からは、細胞の栄養要求性や、遺伝子発現の調節などといった事柄が理解されている。また、栄養要求性のみならず、環境因子の要求(温度、pH、酸素など)についてもその知見が得られている。

顕微鏡観察
アントニー・ファン・レーウェンフックの発明した顕微鏡は微生物の概念をもたらしたが、顕微鏡を用いた細胞の観察は現在でも必要欠くべからざるものである。現在は、電子顕微鏡をはじめ多くの高性能な顕微鏡が開発されているが、その結果微生物表面に存在する鞭毛運動やタンパク質の挙動などが明らかになってきている。

微生物の遺伝学
微生物の培養から元株の完全なクローンが通常得られるが、一定の確率で性状のやや異なる株が得られる。突然変異の概念をもたらしたのは微生物学の成果の一つでもあり、突然変異の誘導をはじめ、相同組み換え、形質転換、接合、F因子の伝達、形質導入といった、現在の分子生物学にきわめて重要な多くの方法を提供してきた。

分類
微生物は形が小さいために形態が単純であり、多細胞生物のようにその表現型から分類を行うことは難しい。が、上記の微生物学的知見を駆使して分類を行うことは不可能ではない。また、表現型の評価が難しいことから16S rRNA系統解析のような遺伝子を用いて分類を行うことが考え出されている。

藻類や原生動物においては、形態が重要視されるが、電子顕微鏡レベルでの構造が明らかになるに連れ、外形よりも鞭毛装置などの微細構造が重視されるようになった。菌類では、生理作用による判別と形態が共に重視され、原核生物では、外見的な形態での分類はほとんど望めないため、生理作用、たとえば様々な物質の分解能などが重視されたが、これらも次第に分子遺伝学的形質等に重点を移しつつある。

物質循環と微生物
炭素、窒素をはじめ多くの物質が生態系の中を循環しているが、中には微生物にユニークな反応も存在し、物質循環に果たす微生物の役割は想像以上に大きいことが示唆されている。この学問は特に微生物生態学といわれている。また、微生物間の種間相互作用も研究が進んでいる。

病原性
炭疽菌をはじめ多くの微生物は人間に対して病原性を持っており、疾病の面からも多くの微生物が研究されてきた。人工的免疫法、衛生学的手法といった現在の医学においても欠かせない多くのテクニックが微生物学から生まれている。また、ウイルスについても、病原性(タバコモザイク病)から発展した概念および学問の一つである。なお、日本では病原性の微生物を扱う学問として細菌学という固有の分野を設けている。

関連項目
微生物
細菌学 / 口腔細菌学 / 生物学 / ウイルス学(ウイルス) / 寄生虫学(寄生虫) / 真菌学(真菌)
感染症学
ロベルト・コッホ / ルイ・パスツール / ジェンナー / アントニー・ファン・レーウェンフック
感染症 / 伝染病
炭疽 / ペスト / 偏性細胞内寄生性微生物
免疫学 / 遺伝学 / 生化学 / 分子生物学 / 生物学
医学 / 歯学 / 農学 / 理学 / 公衆衛生学 / 疫学
医師 / 歯科医師 / 薬剤師 / 臨床検査技師 / 歯科衛生士
インフェクションコントロールドクター / 感染症専門医 / 感染制御専門薬剤師 / 感染症対策看護師(感染管理看護師) / 感染制御認定臨床微生物検査技師 / 感染管理歯科衛生士(感染制御歯科衛生士) / 滅菌技士(第一種・第二種) / 感染管理介護福祉士(感染制御介護福祉士) / 医療環境管理士
染色法(グラム染色) / 細菌叢調査
日本細菌学会 / 日本感染症学会 / 日本環境感染学会
WHO / アメリカ疾病予防管理センター (CDC) / 国立感染症研究所 / 厚生労働省 / 保健所
731部隊 / ABC兵器